『リオとタケル』著者・中村安希さん セクシュアル・マイノリティーと聞いて、どんな人を思い浮かべますか? いわゆる「おネエ」系? たしかに、彼ら彼女らをテレビで見ない日はないだけに、最初に思い浮かんでも不思議ではありません。しかし、彼ら彼女らのようにセクシュアル・マイノリティーの「特殊性」を武器にして生きる人たちとは別に、外見からはわからない、いわば「普通のセクシュアル・マイノリティー」もいることは、「普通」であるがゆえに、なかなか見えにくいのが現状です。 『リオとタケル』(集英社インターナショナル)はそんな「普通のゲイ」のカップルに取材したノンフィクションです。著者である中村安希さんが、留学先で先生として知り合ったアメリカ人の「リオ」とそのパートナーで日本人の「タケル」。彼らの人としての魅力が、彼らの親族や友人などへの取材も通じて、余すことなく描かれています。そこで、中村さんに本書を通じて伝えたかったことを伺いました。 「LGBTの人がいて当然」のアメリカとそうじゃない日本――この本を書こうと思った動機を教えてください。 中村安希さん(以下、中村):20代を通して、私自身が人としてリオから大きな影響を受けたからです。単に彼がゲイだったというだけでは、本にしようとまでは思わなかった。彼はそれまでに会ったことのある「ゲイ」、「大学の先生」、「アメリカ人」の、どのイメージからもかけ離れた人でした。そんな自分が魅力を感じる人について書きたかったというのが始まりです。 ――本書にはいつどこでカムアウトするか悩むゲイの人々が多く登場します。私はヘテロ・セクシュアルなのですが、私はきっと両親に「女性が好きだ」というカムアウトはしないと思うんですね。しかし、セクシュアル・マイノリティーの人は何かに強いられるようにしてカムアウトしているような気がしますが。 中村:彼らもカムアウトしたくてしているわけではありません。この世の中がヘテロ・セクシュアルを中心に回っている以上、せざるをえない。例えば、「彼女いないの?」とか「いつお嫁さんが来るの?」という会話は日常的に交わされますよね。これを黙って受け入れていては、相手に嘘をつくことになってしまう。その時に、「ちょっと待って。実は違うんだよ」と話すのが、結果としてカムアウトすることになるということです。こういう会話がマイノリティーの人にとって窮屈になっているということは、自分がその立場に立つまではなかなかわからないことかもしれませんね。 ――本の中には、セクシュアル・マイノリティーに理解のある人だけではなく、露骨な嫌悪感を示す人も登場します。「レズビアンは汚い」と平然と言い放つ女性が出てきたのには衝撃でした。 中村:ああいう人は珍しくありませんし、むしろ一般的な反応だと思います。ああいった発言が出てくる背景には、ヘテロ・セクシュアル中心で回っている社会の空気と、自己保身欲求があります。周りの人にレズビアンだと思われたくないがゆえに、とりあえず悪口を言っておくというような。特に日本では、自分の隣に「セクシュアル・マイノリティーの人がいるかも」と思ってない人が多い。それでヘテロ社会の空気にあわせて「何となく差別発言をしてしまう」という人が多い気がします。 「愛する息子」と「世間の目」の間で揺れる家族――日本のゲイに対する理解の現状という点では、タケルさんが自身の家族にカムアウトし、拒絶されてしまうという記述に驚きました。数十年に渡り、ご家族とはカップルともども仲良くされていたんですよね? 中村:内々にカミングアウトしていたら、受け入れられたのかもしれない。でも、私が取材したい旨も伝えてもらっていたので、家族以外の人に周知されることが耐えられなかったのでしょう。それはとても日本的な感覚だと思います。タケルさんの家族はリオのことを大好きだと思うんですが、世間の目が気になってしまうという。これにはさすがのリオもちょっと混乱していたようです。明るくですけれど、「タケルの家族にとって、僕はなんだったんだろうね」と言ってました。 ――本の中でも大きな問題として扱われている同性婚についてはどうお考えですか? 中村:基本的には賛成です。ただしこの結論に至るまでには、たくさんの事例を調べたり、当事者の話を聞いたり、賛成派と反対派それぞれの主張についても勉強しました。結婚に対する国ごとの考え方の違いもありますし、段階の踏み方も違っています。だから今すぐ日本でも同性婚を合法化しよう、というのではなくて、まずは議論からはじめて、最終的な方向性として多様な結婚のあり方が認められていくといいなと思っています。 ――ところで、「おネエ系」タレントの活躍は、日本でゲイの人を身近に感じるきっかけとはなると思いますか? 中村:ゲイ・コミニティーには「おネエ」じゃない人の方が多いと思うんですよね。にもかかわらず、メディアに表出しているゲイが「おネエ」ばかりになってしまうと、そうではないゲイもいるという認知が広がらない。メディアの取り上げ方にも問題があると思います。セクシュアリティーというのは、その人のアイデンティティーの小さな一部。その人の全体的な人間像をちゃんと伝えるようにして欲しいと思います。 >>【後編につづく】愛は思い通りにいかないときこそ試される 『リオとタケル』著者が語る“深いパートナーシップ”
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