30歳を区切りに、ヌード写真を撮る人がいる。芸能人ではなく一般のごく普通の人が、スタジオを借りて一糸まとわぬ姿を写真におさめてもらうのだ。実際に行動にうつすまではいかずとも、興味を持っている人は少なくない。30歳になる前や、なったばかりの時期に、今現在の姿を残しておきたいからだそうだ。私もその理論で言えば、ヌード写真適齢期である。そこで、この機に撮りに行ってみることにした。予約したのは、スタッフもカメラマンも全員女性のみの、「studio IVY」である。 正直、最初は相当イヤだったと言っても、こんなにあっさりと行こうと決意したわけではない。正直に言うと、撮影が終わるまでは、相当イヤだった。あるのは「ヌード写真を撮りたがる人の気持ちを知りたい」という少しの好奇心。撮りたくない理由ならばいくらでも挙げられた。女性にとって30歳という年齢が重みを持っていることはわかる。この先、努力しないと体を維持できない、あるいは努力しても体が崩れていく目安の年齢が30歳なのもわかる。だが、そこでヌード写真に行き着くのは、わからない。よほど見事なスタイルをしていない限り、わざわざ記録に残すほどのシロモノなのか、と思ってしまわないだろうか。ハダカは究極のプライバシーなのに。たとえ相手が女性カメラマンでも、できることなら自分の裸体は他人に見せたくない。「記録に残すこと」と「赤の他人にプライバシーを見せること」を天秤にかけると、私には後者のほうがずっと重い。 他人とお風呂に入るのすら抵抗があるそもそも私は、人と一緒にお風呂に入るのが苦手である。修学旅行や合宿などの泊まり行事で「一緒にお風呂に行こう」と言われるのがとてつもなく憂鬱だった。一緒にお風呂に入るとなると、狭いお風呂の中で人のハダカを目にし、自分のハダカを見せることになる。いくら友人といえど、距離感が近すぎやしないだろうか。私はもっとこう、それぞれがそれぞれのタイミングでお風呂へ行き、鉢合わせてもお互いのことは見て見ぬふりをし、そそくさとお風呂から出る、そんな時間を過ごしたかったのだ。 家族写真撮影やマタニティヌード撮影のコースもある ヌード感の少ないものにしよう…撮影日がやってきた。スタジオに入ると、スタッフさんからサンプル写真を見せられながら、撮影イメージを決めていく。カラーにするか、モノクロにするか、黒い背景か、白い背景か、でどの組み合わせにするかを決めるのだ。自分に甘い私は、この期に及んで腹をくくれず、“ヌード感”の少ないものを選ぼうとしていた。黒い背景はシックに、白い背景は柔らかく明るい雰囲気になり、基本的にはモノクロのほうがヌードっぽさは薄れる。すべてモノクロにしようかと思ったが、わざわざ撮りに来て、ヌードっぽさがほとんど感じられないものばかりを撮っていいのだろうか……。どうしよう。 iPadでサンプル写真を見せられる ちなみに、サンプル写真はこのような感じである。 このスタジオのコンセプトは、「人に見せられるような、部屋に飾っておけるようなアート写真」。確かに想像していたほど強烈ではない。自分のできるギリギリのラインを、スタッフさん・カメラマンさんとの相談で決めていく。 ジャケットやレース、靴、アクセサリーなどがレンタルできる クッションなどの小物もある 小物を使って隠せばいいのでは!?レンタル小物の部屋に案内されたことで、私の中にさらなる甘えが生まれた。小物をしこたま使って隠してしまえばよいではないか。こうして、ヌード写真を撮りに来たのに、いざ撮る段になって尻込みし、肌が見えている部分が少ない中途半端な写真、ができあがる運びとなった。 本日使う小物 撮影準備中 いよいよ裸体を晒す下着も含めてすべて脱ぎ、ガウンを着てカメラの前に立つ。いよいよ裸体をさらさなければならない。「後ろ向いてガウンを下に落としてくださ〜い」のカメラマンさんの声で、ガウンを落とす。すると、「右手を上に伸ばしてみてください」、「左手で右の手首を触ってみましょう」と次々ポーズの指定が入る。せわしない上に、普段使わない筋肉を使うため、体がプルプルとして痛い。こんなに筋肉をヒネらないとスタイルよく写らないのかと内心落ち込んだところを、間髪入れずカメラマンさんは筋肉のラインがキレイだの、表情がいいだの褒めてくる。プロである。誰にでも言っていることだと分かりつつも、手を変え品を変え褒めてもらえるのは、結構気持ちいいかもしれない。人はこうして、甘い言葉に騙されていくのだろうか。 仕上がりは…そうしてできあがったこちらが黒い背景で撮ったモノクロ写真。 こちらがありったけの小物を身にまとって撮影したカラー写真。 ヌードとは言い切れない写真しか撮れなかったとはいえ、この日以来、私のヌード写真への意識は180度変わった。行く前はあんなに撮りたくなかったヌード写真だが、私はまた撮りに行ってもいいと思っているのだ。撮影されている間中、とにかく気持ちがいいのである。褒め言葉によってハダカを“承認”されることで、「人にハダカを見せるなどとんでもない」と頑なだった心は、自然と開いていた。服という防御壁がないからなのか、カメラマンさんの浴びせてくる褒め言葉を、ナチュラルに吸収できる感覚があった。もしも服を着ているときだったら、同じ言葉を投げかけられても猜疑的に捉えてしまっただろう。 区切りの歳にヌード写真を撮るというのは、とても本能的なことなのかもしれない。お店のカメラマンさんが、体を批判してくることはまずないというのは分かり切っていることだ。その絶対的な包容を求めて、人はヌード写真を撮るのではないだろうか。
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